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2018年3月24日土曜日

筆者が浣腸を意識した幼少期 その3

 私が浣腸を単なる排便のための手段ではなく、子供なりに性的な意味合いで捉えた、意識したのは3つの出来事が絡んでいる。 既に書いた通り、1つ目の出来事は、幼稚園に通っている頃、鼠経ヘルニア(脱腸)を発症し、排便のために力むことを避けるために浣腸のお世話になったこと、常時脱腸帯を装着していたことでどうしても下半身に性的意識が集中していたことだと言える。

 2つ目の出来事は、母親自身が浣腸使っているのを見、自分も肛門に性的快感を感じ始めたことだった。 このことで浣腸が興奮の材料、快感の材料という意識を強く持ったと思う。

 この浣腸を快感を得る手段として捉える様になったことで、自分自身でも浣腸をしたいと思い、されることに被虐的快感を得る様になったと認識している。 思春期が近づくにつれ、性器への興味も増し、おちんちんを弄ること、浣腸すること、浣腸されることが秘密の行為となった。

 小学校も高学年になった頃、おちんちんを弄ることで強い快感を得る様になり、ある時浣腸をしておちんちんを弄っていると、「あ~っ!」という感じでおちんちんが脈打った。 同時に白いドロドロしたものが出てしまい、自分でどうしてよいか判らなくなった。 取り合えず浣腸していたので排便を済ませ、おちんちんを綺麗にした。 しかし、その時の快感は、それ以降の日常生活において忘れられないものとなった。

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 小学校の高学年になっても母親に浣腸されていた。 これは、私の問題だけでなく、母親にも浣腸嗜好があった故だと思う。 特に風邪などで臥せった時などは浣腸されることが多かった。 浣腸に解熱効果があることと、浣腸したいという母親の嗜好、私にされたい意識があって拒まなかったことでそうなっていたのだろう。

 成長段階としては、上記の様に射精する思春期であった。 風邪で臥せっていると母親が、「ウンチは出そう?」と聞いてきた。 横になっていると便意は感じにくいこともあって、「出そうにないよ。」と言うと決まって、「浣腸しとこうか。」と言いながら準備をした。 幼少の頃から、臥せっている時はオシッコは尿瓶、ウンチはオマルでの浣腸排泄だった。 臥せっているときは、布団の裾の方が捲られ下半身を裸にされて浣腸排泄だった。 浣腸されると思うとおちんちんが反応する様になったいた。 その時も下半身を裸にされた時おちんちんは大きくなっていた。 母親もそれに気づいていたと思う。

 「先にオシッコしなさい。」と言いながら、少し大きくなったおちんちんを尿瓶の口にいれた。 オシッコが終わると両膝を立てた股間からお尻の穴に軟膏が塗られ、ガラス浣腸器が差し込まれた。 浣腸液が少しだけ注入された段階で浣腸器が抜かれ、いつもとの違いを不思議に思っていると、おちんちんに母親の手の感触があった。 きっと勃起していたんだと思う。 おちんちんが優しく刺激され、暫くして射精してしまった。

 「スッキリしたでしょ?」と言いながら、残った浣腸が注入された。 恥ずかしかったことを覚えている。

2018年3月21日水曜日

筆者が浣腸を意識した幼少期 その2

 私の母親は大正生まれの古風な人であった。 その様な時代だったのかも知れないが、洋服を着るのは外出する時ぐらいで、普段は和装が主だった。

 私が虚弱であり、母親の心配の種であったこともあるのだろうが、幼稚園へ行くまでは、四六時中母親にべったりくっついていた。 寝起きも、風呂に入るのも、母親が着替える時も傍に居たと思う。 従って母親の一挙手一投足を見ており、風呂や着替えの様子もしょっちゅう目にしていた。 和装が主であった母は、外見は普段の着物の上に当時当たり前の割烹着を着ていた。 何をするにもその様な姿が今でも目に焼き付いている。

 母を笑いものにする積りではないが、和装の中について少し話しておきたい。 大正から昭和初期を生きてきた母親にとっては時代背景から当然であるが、和服の中は、襦袢と腰巻きが当たり前で、今の様にパンツやパンティと言ったものは着けていなかった。 生理の時はT字帯といわれるものを股間に当て、出血を止めていた。 いつも傍にいた私は母親のそんなことを全て見ていた。

 話しが脱線するが、昭和7年12月16日に東京日本橋にあった白木屋というデパートで大火災が発生した。 死者14名、負傷者500名以上という悲惨な事件である。
必死の消火活動、救出活動にも拘らず多くの犠牲者を出した背景に百貨店女子従業員の服装の問題があったらしい。 和装中心の百貨店従業員は、私の母親同様、パンツという様な下着を着けておらず、はしご車やロープでの救出を躊躇し、焼死したり墜落死したと聞いている。 ビルの上の階よりの救出となるとどうしても着物の裾が開き下から陰部が見えたり、下半身が丸見えになるのではないかとの躊躇いである。 この事件以降、女性の下着が急速に普及といわれている。

 この様に母親の若いころは和装の中は腰巻き程度が普通であり、それに慣れていた母親は太平洋戦争後も慣れた服装でパンツなどを着けていないことしばしばだった。 小さいころは母親がトイレに入っても横に居たことがあり、着物をたくし上げ、そのまま放尿している姿も記憶にある。 いつも母親のトイレについていった訳ではないが、ある時、私が傍に居る時、和式便器にしゃがんで苦しそうにしていた。 そして、「たかおちゃんと同じ様に、お母さんもウンチでないの。」と呟いた。 そして股間を紙で拭くと立ち上がり、居間に戻った。 私の排泄の全てを面倒見ている母親にとって、自分の排泄を私が見ていることに大きな抵抗はなかったのだろうと思う。

 ウンチが出なかった母親は、私に「ちょっと待っててね。お母さんも浣腸するから。」と言って押し入れからイチジク浣腸を取り出し、私が居る横で座布団の上に仰向けに寝ると両膝を上げ股間から自分で浣腸を差し込んでいた。 私は自分と同じなので別に気にもしていなかったが、今になって思い返すと異常なことだと言える。 暫く我慢した母親は、「チョット待っててね。」と言ってトイレへ行った。 そんなことは1度ではなかった。

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 頻繁ではないが、母親が自分で浣腸する姿は何度か目にしていた。 自分がされていることと同じことを自分でしている母親に違和感もなかった。 逆に、母親もウンチがでないことがあることが自分が特別なんじゃないとの安心感を与えた。 母親も自分も浣腸するんだということを見せることで、私に安心感を与える意図があったのかも知れない。

 ある時、見たことがある格好で座布団に仰向けに寝て両膝を立てている母がいた。 やはり浣腸をしていた。 しかしその後がいつもと違っていた。 イチジク浣腸を抜き横に置いて、手で股間を弄り、うっとりとした様子であったことを覚えている。 暫くすると立ち上がり、トイレへ行ったと思ったが、トイレから呻き声の様なものが聞こえた。

 今になって思えば、浣腸オナニーだったのだろうと想像する。 そんな様子を見たことで、母親にも強い浣腸嗜好があったのではないかと想像している。

 物心ついた頃から当たり前であった浣腸。。。。。自身が鼠径ヘルニアを経験することで浣腸に特別なことなんだと感情を抱き、また、自分自身の肛門に何か不思議な快感を感じる様になった。 そんな状況の中で、これまで気にしていなかった母親自身が浣腸を使う姿を見るに、徐々に浣腸に特別な感情を抱く様になっていったと言える。

 幼稚園の頃に発症した脱腸は、家の中だけでのことではなく、自分自身が家を離れて通園し、幼稚園の保母さんにも苦労を掛けることとなっていた。 脱腸は簡単に治るものでもなく、脱腸症状を抱えたまま小学校へ上がることになった。

チャットで聞いた共感と驚きの話し づづき

 ご本人(息子)と母親は、コーヒーを飲みながら無言でテレビを見ていた。 暫くして母親が、「今日は出たの?」と子供のころの様な質問をした。 「出てないけど。。。」と息子が無造作に答えると、「じゃ~、浣腸してあげようね。」と息子を促した。 アラフォーを迎えた息子はどうしてよいか判らずに居ると、「ズボン脱ぎなさい。」と言われて立ち上がった。 ズボンを脱ぎ下半身パンツだけになると、「ここに四つん這いになって。。。」と言われ、ソファの上でパンツのまま四つん這いになって母親にお尻を向けた。

 子供の頃の様に、母親はパンツを脱がし剥き出しになった息子のお尻の穴に浣腸を差し込んだ。 母親は息子のおちんちんが勃起しているのに気づいていたのか、注入が終わるとティシュでお尻の穴を抑えながら、勃起したおちんちんを少し触った。 そして、「中学校の頃も、おちんちん立ってるのお母さん知ってたわよ。」と言われ、本人は赤面してしまった。 やがて「トイレ!」と言って母親から離れ、下半身裸のままトイレで排泄した。 排泄しながら、息子の頭の中は、母親にも浣腸したいと思っていた。

 下半身を剥き出しにし、おちんちんを手で握り隠した状態でトイレから出てきた息子に母親は、「お母さんにもしてくれる?」と言われ、再びおちんちんを勃起させた。 自分の妄想と現実が重なり、心臓がドキドキしたらしい。 母親の感覚は子供のころの息子を相手にしているのと変わっていないのだろう。 履いていたスラックスを脱ぎ、パンツだけになった。 決して女性のショーツといったものではなかったが、息子の心臓は経験したことのない鼓動を起こした。

 自分が下半身剥き出しであることを忘れ、残ったイチジク浣腸を手に取り袋を破った。 ソファに仰向きに寝た母親のパンツを下げると還暦を超えた女の秘部が見えた。 「こんな格好でいいの?」と言うと母親は両膝を抱え、お尻の穴を突き出した。 「お母さん、入れるよ。」と言いながら、イチジク浣腸を差し込み薬液を注入した。

 息子は浣腸を抜くと、堪らず母親の秘部を触った。 母親も勃起したおちんちんを手にした。 その後の成り行きは、読者の想像におまかせします。

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チャットでの会話で、聞いた話しが作り話しかどうかは判らないが、驚いたと同時に殆どの内容に共感した。 私は母親と近親相姦に至る様なことはなかったが、息子に浣腸することに快感を感じるということは、私の母親にもあったのではないかと改めて感じることが色々と思い出される。

チャットで聞いた共感と驚きの話し

 先日チャットで待機していると、アラフォーの男性が入室してこられました。 「ブログを書いておられる”たかお”さんですか?」と突然聞かれた。 男性なので躊躇ったが、「はい」と答え、挨拶を交わしチャットを進めた。

 その方に聞くと、実は自分も同じで幼少期に母親からしばしば浣腸された経験があり、今も浣腸に執着を持っているとの話しの始まりだった。 私も同胞の士の様な気がして、その方の話し共感の意を伝えた。 その方も、私と同様便秘になることが多かったらしい。 話しを聞くと私の様に体質的というより、場所が変わったり嫌なことがあったりするとそうなるらしく、話していても非常に優しい感じがする方だった。

 私も若干そんな面もあるが、アラフォーを迎えた今でも仕事でストレスが多いとか、出張などで環境や場所が変わると便秘になることがあり、自分で浣腸することが多いと話しておられました。 私も大人になってから、馴れていない場所での排便は、便意が生じにくいと共感の会話を交わしていた。

 その方がお話しになりたいことは、今も自分で浣腸するということではなく、母親に浣腸されていた子供のころのことだった。 ウンチが出ないことで困って浣腸されたというより、母親から積極的に浣腸され違和感があったとの内容だった。 その方は、便秘になることが小学校時代を過ぎ、中学校へ上がってからも母親に浣腸して貰ったことがあると話しておられた。

 その方は、チャットで話していても内気な優しい方と感じた。 それが原因かどうかは判らないが現在も独身で母親と暮らしているらしいが、高校生ぐらいから母親に浣腸されることはなくなり、ウンチが出なかったら使いなさいと浣腸の買い置きがあり、使ったこともあると話しておられた。

 アラフォーになった今は自分で浣腸を買い、自分でしているが、ある時、母親と夕食しながら何故か子供のころの浣腸の話しになったらしい。 「まだ便秘になるの?」との母親の問いかけに、「出ない時もあるよ、浣腸することもあるけど。。。」と話したとか。

 子供の頃の母親の積極的な施浣の違和感が心に残っていたその方は、「中学校へ行ってからも浣腸して貰ったよね。」と言ってみたらしい。 母親はポロッと、「お母さんは貴方に浣腸するのが好きだった。。。」と言い、「・・・・」と返事に困ったものの、されたい気持ちが強く湧いてきたらしい。

 「良かったら、子供のころの様に浣腸してあげようか?」と母親の続く言葉に、「。。。。うん!」と頷いてしまったらしい。 「じゃ~、食事が終わったらね。お母さんも出ない時はするのよ。」と嬉しそうに自分のことを言ったとか。 そんな会話をしながら食事も終わり、母親は食事の後片付けをし、自分はテレビを見ていた。 アラフォーになった自分と、還暦を超えた母親、そして30年近く以前の浣腸のこと。。。。頭の中が混乱していた。

 後片付けが終わった母親は、コーヒーをテレビを見ている息子の前のテーブルに置いた。 そしてポケットからイチジク浣腸の箱を出し、テーブルに置いた。

筆者が浣腸を意識した幼少期 その1

 私の生い立ちの振り返って、治療のための浣腸ではない何か特別なものという意識を持ったことがある。 それは思春期に至るまでに3回あった。

 最初に浣腸を特別なものとして意識したのは、鼠径ヘルニア(脱腸)を発症した時だった。 それまでは、ウンチが硬くて出ない、だから浣腸して出すんだ。 それで自分もスッキリするという感覚でしかなかった。 私の健康のために母親は浣腸するんだと単純に理解していた。 しかし鼠径ヘルニアの発症に伴い、ウンチが出ないから浣腸するというのではなく、浣腸によってウンチを流し出すという感じに変化したことを記憶している。

 その為、子供用のイチジク浣腸やガラス浣腸器での少量のグリセリン浣腸だったものが使用するガラス浣腸器が大きなサイズに変わり、注入する薬液の量も多くなった。 ウンチが出ない時に便意を起こさせる程度だった浣腸が、薬液によってウンチを洗い流すといった状態に変化し、浣腸への意識が大きく変わり、日々特別なことをされているという認識を持った。 この頃から、浣腸という行為に強い興味を持ち始めていた。

 しかし、状況の変化や施される治療の変化だけで、浣腸に強い執着を持った訳ではないと思える。 人間本来肛門性感というものがあり、幼少期はそれが強いと聞いたことがあるが、肛門を弄られる機会が多かったことで無意識の心地良さを感じていたのではないかと思う。 その様な何とも表現のしようがない心地良さとそれを生み出しているのが浣腸ではないかという意識に目覚めたのではないかと思う。
 

2018年3月20日火曜日

バスルームでの大量浣腸!

 私はパンツしか履いていなかったのでそれを脱ぎ裸になった。 準備したイルリガードルを持って、「バスルームでしてあげるから。。。ローションとって。」と彼女を促した。 彼女も履いていたパンティを脱ぎ棚にあったローションを持ち私に従った。

 シャワーのコックを回し熱過ぎない適温に調節しイルリガードルに湯を溜めた。 タンクをドアのフックに掛けイルリードルのコックを捻るとカテーテルの先端から左右に線を描いて湯が出た。 「こんな風にお尻に入るの? でもお湯が沢山過ぎるわよ!」と彼女は驚いている。 湯がでることを確認してコックを閉じた。 風呂の床に排泄しない様に洗面器を脇に置き、彼女に四つん這いになる様に促した。

 「大丈夫かなぁ?」と言いつつ、両膝と両手を床面について四つん這いになった。 お尻の穴と陰部をいやらしく露出して、何をされるのかと不安な様子だ。 ガラス浣腸器での浣腸とは違って、カテーテルを挿入するためにローションをたっぷり塗る必要があった。 ローションを手に取り彼女のお尻の穴に指を入れる様にしてローションを塗った。 「あ、あ~っ!」とお尻の穴に挿入される指に鋭く反応した。 暫く指を出し入れして肛門を緩めると共に、意地悪をすると彼女は声を出して反応しながら、陰部を濡らしていた。 「今日はウンチでたの?」と聞くと卑猥な声の合間に、「まだ出てないの。」と答えた。

 指を抜いて、カテーテルにもローションを十分塗り、彼女のお尻の穴に15cmほど挿入すると浣腸とは違うカテーテルの太さに性的反応を示した。 そして、イルリードルのコックを開くと、「う~っ!あ~っ!」と湯が入っていく感じに反応した。

憚るものがない二人の環境

 二人の愛の巣、浣腸の巣となったマンションは、何ら憚るものもなく、色々なことが自由にできた。 夏場は、部屋では下着姿で過ごすこともあり、私はエッチなパンツ、彼女はブラジャーもつけないことがあった。 互いに相手の裸には慣れて、そのままお茶を飲んだりすることもあった。

 私も便秘になることもあったが、彼女は私よりも出ないことが多く、安易に浣腸できることもあって彼女は排便努力をしない様になっていた。 浣腸だけで排便するのは身体によくないし、浣腸の馴れで余計に便秘になると思えた。

 正しい知識かどうかは判らないが、微温湯での大量浣腸の方が便秘の改善に繋がると聞いたこともあり、彼女に内緒でイルリガードルを買い求めた。 もし、グリセリン浣腸よりも身体の負担にならないなら私も利用しようと思っていた。 買い求めたイルリガードルはクローゼットに包装したまま仕舞ってあった。 ある時、彼女がたまたまその品物に気付き、「これ何?」聞いてきた。 仕方ないのでイルリガードルであることを話すと、大量浣腸のことはまるで知らなかった。

 「二人とも便秘気味だから、グリセリン浣腸ばかりしていると身体に良くないから買っておいたんだよ。」と説明すると大量浣腸のことを知らない彼女には理解できなかったらしい。 「これも浣腸なの?」と聞くので、「浣腸だけど、グリセリンの様な刺激がない浣腸だよ。」と説明した。

 「開けてもいいの?」というので、「知らないなら、見てごらん!」と答えると直ぐに包装を開き、中からプラスチックの大きな容器を取り出した。 チューブやカテーテルもあり彼女には良く理解できなかった様だ。 「使ってみる?」と聞くと、「え~っ!これで浣腸するの?」と想像できない様子だった。

 「使ってみたら判るよ。」と言いながらイルリガードルにチューブやカテーテルを繋ぎ、使える様にした。 そしてタンクに微温湯を入れて、ゆっくり大量に注入することを説明した。 注入中に我慢できなくなると困るので浴室で使ってみることにした。